世界で古い大学の代表の一つに挙げられるナーランダ大学は、紀元前5世紀に創設された12世紀にわたり仏教教学の最高学府として栄え、アフガニスタン人に破壊されるまで仏教学の中心地であった。7世紀前半には、玄奘三蔵留学の地として、「大唐西域記」や、それに、擬して書かれた16世紀明朝の呉承恩作の「西遊記」によって、有名であり、その広大な遺跡は王舎城から16Kmの北西にある。ナーランダ大学の起源については、釈尊の十大弟子で知恵第一といわれたシャーリプトラ(舎利弗)と、神通第一といわれたマウドガルヤーナ(目連)が、この地方の出身であり、この二人はともにバラモン階級の家に生まれ、当時有名な懐疑論師サンジャイヤの下で出家し、日の神アグニーの行法を修し、それぞれ百有余名の弟子をもって名声があった。ある日のこと、舎利弗は遊行中の仏弟子アッサジの沈着な態度に感心して、ついに言葉をかけたことから、釈尊を知り、目連とともに竹林精舎を訪ねた。2人はそこで、因と縁の血統と環境の関連的重要性を拝聴し、飜然と悟って師弟250人を率いて釈尊の弟子となった。
元来その地方は、美しいマンゴー樹林帯でその中
央に池があり、池にはナーランダと呼ばれる龍が棲息して、水と雨を支配するという伝説があり、それでナーランダ村といわれていた。豊かな森と水に恵まれ、禅定三昧の場としても自然の環境がすばらしかったので、500人の商人たちが、共同して、アームラ長者の私有地を購入し、釈尊にに寄進したと伝えられている。こうして精舎が建立され、釈尊も夏安居の3ヶ月間止住し説法されつことにもなるが、紀元前後から仏教学研の中心地として発展する。またマガダ国の歴代君主もその地を厚く保護したので、いつしか学者たちの参集するところとなった。さらに、5世紀になって、グプタ王朝のシャークラ・ディテヤ王が増築拡張したので、総合大学としての学風を示すに至り、最盛期には学生1万余人、学匠2千人に達する広壮なものとなった。なお、シャークラ・ディティア王はグプタ王朝第四代のクーマラ・グプタ一世であることが、近年ナーランダ出土のテコラコッタの印章の刻文によって明確となり、玄奘の記録が実証されたのである。玄奘学んだ7世紀当時も、インドでは他に比肩するもののない権威である大学で、数千人が学び大乗仏教が研究の中心であったが、他の諸派の仏教教義も研究され、バラモン経典であるヴェーダ、ウパニシャッドを始め因明(論理)、声明(音楽)、医方明(医学)工、冶金、数、書画、呪術などの権威者が集まっていて、毎日百余ヶ所に講座が開かれ、一度学園内に入ったら、仏典の深い意を論ずるのでなければ、誰も相手にしないほど好学の気風がみなぎり、真に学問の府であったと述べられている。その当時の学長が、唯識学派の正法蔵を敬称されるシーラバドラ(戒賢)であり、玄奘はこの学匠について、631年より36年まで、すなわち29歳から34歳までの5ヶ月間、ヨーガ論を始めてインド哲学の中論、百論、純正理論の他、古代より伝わったサンスクリットの書をことごとく学び、そして後のには学長代理まで勤めたのである。なお、玄奘の最初の漢訳は「瑜伽師地論」であることも、忘れてはならない。この玄奘の求道の熱意に触発されて、7世紀後半には玄奘が長安の都に帰ってから26年目に、義浄三蔵も難解航路を経て留学している。しかるに、このナーランダ大学も12世紀終わりに、ガール王朝の部将であったアフガニスタンのモハモット・イブン・バクティヤール・ハルジーの率いるイスラム軍団がビハール地方を攻略した最の焼きうちに遭い、見物は炎上、経典・書籍類はは6ヶ月余りにわた
って延焼した。その間仏教徒たちはネパールやチベットの山岳地帯にからくも持ち出した経典類を運び、また一方では消化のために土を覆って逃げたので以後7百年間埋没したままであった。1916年から発掘調査が開始されたが、堂塔伽藍並び各学部舎の遺跡は東西250m南北610mの広い地域で今日も継続されている。周辺には小高い丘が散在して、埋没の様相を語り発掘が終わるまで一世紀を要するとさえ言われている。
僧院跡地

玄奘三蔵の留学した大学